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柔らかに鼓動する和歌山の建築

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海南市塩津と、紀伊風土記の丘を歩く


(Mo-Ku通信vol’10)

事務所の研修旅行で、地元和歌山の一つの町並みと四つの古民家を訪ねました。
朝に訪れた海南市下津町の塩津は、漁村です。

貨客船の寄港地としても発達した港をぐるりとめぐる山肌に、建物がひしめき合って町並みを形成 しており、波止場から海を背に見上げると、段々に連なる家々が、すぐ目の前まで迫っています。
建築群の合間を縦横に縫いはしる、細い坂道と 階段。
集落へ一歩足を踏み入れたところから、とにかく、すべてが身近です。
道を譲り合えば、結晶片岩を積み上げた石垣が肩に触れる。すぐそこ に、住まいがある。生活が営まれている。物理的な距離だけではありません。ご近所さん同士が窓を開け放った家の中から、簡単な世間話。ある商家の前を通りかかれば「散策に来たの?ここのことならなんでも聞いて」と、軒下の夕涼み台に腰掛けたおばあちゃん達がにっこり話かけてくれます。「素敵なお家ですね」とご挨拶すると「そうでしょう。でも、私の家じゃないのよ」「あら、今日はこの家の人は誰もおらんね」「まぁ、近所中、知ったるもんばっかりやから」。すっかり、 ご自宅前で寛いでいらっしゃるのだと思っていました。心の距離も、ずっと身近なのですね。

平らかな土地で暮らす私たちにとって、町並みは「広がる」ものです。しかし、塩津では雛壇のように「積み上がって」います。
急斜面に家を乗せる平面を確保するには、石積などの擁壁が必要です。建物の多くは、土台の石垣の上に建てられることになります。
そのため、下から見上げると二階建てでもそびえ立ってみえます。視野が限られた路地を登りゆき、ふと脇道をのぞき込むと、むこう側奥深くに別の区画が現れる。ふいに、家々の間から視界が開けると、景色の底に海原が開 けている。潮風を感じると、たまらない爽快感が ありました。
縦にも横にも、近さと奥行きを同時に感じる……塩津にはこの町ならではの不思議な距離感覚が息づいています。

午後からは和歌山市岩橋の紀伊風土記の丘に移動し、和歌山信愛女子短期大学教授の千森督子先生に地域の古民家についてご教授いただきました。

この丘には、塩津からも一軒の漁家が移築されています。
江戸時代前期に建てられた旧谷山家住宅は、主屋の西側に蔵が接する住まいです。ここで、 不思議な事に気づきます。午前中に塩津で眺めた町並みは、石垣と板壁と本瓦の風景でした。旧谷山家住宅は漆喰の外壁に瓦屋根がのった、白と濃色のコントラストが美しい建物だったのです。

学芸員さんによると、蔵が先にあり、元々あった 蔵の造りに合わせて主屋を増築したため、塩津の他の漁家とは趣がちがうのではないか……ということでした。
住まいの出で立ちに、歴史あり。この家には以降も、江戸末期、大正初期、大正末期のあとと数度にわたる改造の記録がのこっているのだとか。
家業と生活が分かちがたく結びついていた時代の、土間や蔵といった作業場が中心の間取りから、暮らしの場が多くを占める間取りへの変遷には、近代にむかって生活と仕事が分かたれてゆく時代の移り変わりが反映されています。

旧谷山家住宅の手前に移築されているのは、同じく海南市は黒江から、江戸時代後期の旧柳川家住宅です。

代々の大商屋で、地場産業である漆製品の問屋を営んでいました。間口が狭く奥行きは 深く、二階建てで、オモテの通りを見通すための大きな窓には、格子がはめ込まれています。町屋の風情がたっぷりです。
暖簾をくぐって中へ入ると、ニワと呼ばれる土間空間があり、商いをする 畳の間(ミセ)があります。奥へ奥へ、入り口から遠ざかる程プライベートな空間となってゆきます。屋内を見渡して感じるのは、公に開かれた場所と私的空間の区切りが、とても緩やかだということです。住まいの一番中心にある奥まった場所 は、ナンドです。現在、納戸(ナンド)といえば 物置きですが、昔は高価な宝物を収納し、夜は家人がそれを守って眠る寝室のことをそう呼んだそうです。
空間に多様な性格や目的をもたせ、時間や時期の流れの中で、必要なその時々にそのための部屋として利用していた、古くからの空間活用術を垣間見ることができます。

紀伊風土記の丘には他にも、有田川町粟生の旧谷村まつ氏住宅、日高川町三佐の旧小早川梅吉氏住宅が移築されています。
どちらも200年ほど前の茅葺きの民家で、個室や廊下がない、玄関口 から家中が見渡せるシンプルな間取りです。

ひとまとまりの空間に、床敷き部分と土間といった段差があり、仕上げ材の違いや間仕切りによって、 区切りが与えられています。こうした民家の間取りは、地域や時代によって柔軟に姿を変えつつ、 大筋ではゆるやかに流れを汲みながら引き継がれて来たそうです。
たとえば、農家では住まいに作業を持ち帰るので作業場としての土間が広く、林業を生業とする山間部では自宅に持ち込める仕事が少ないので比較的土間が狭めであったりしたと いうことでした。
近代に入って社会の情報化が進み、農業が効率化すると、民家はそれまでにないスピードで大きな変革を遂げたそうです。
オモテに面する土間は、 子供部屋や応接室・衛生空間へと変容し、奥にある土間は、単なる炊事場から食事をする板間を含むようになり、団欒の空間としての新たな役目を得て、床上のダイニングキッチンへ……今の街で馴染みのある住まいのスタイルが思い浮かびます。

空間の用途が明確で個室に分断されがちな現在の建築と、和歌山の伝統的な住まいを比べると、 古い時代のものの方が、人と建物の関わりが密であったように感じます。おおらかに広がる空間は、 建物と住人が互いに作用しあって多彩な表情を生み出しています。
全体に柔らかな一体感があり、 生活に連続性と物語を感じます。
生きている人間の暮らしには、生理的な代謝や、日々の想いがあるものです。それに呼応して同じように代謝してくれる住まいは、新しい・古いとは別の感覚の時間を人と共有し、包みこんでくれそうです。

塩津と紀伊風土記の丘で見た和歌山の建築の姿は、とてもドラマティックでした。
相互の関わりの中で物語を共有し鼓動する、一つの建築の姿に 出会えた気がします。(中村祐子)

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